トプンとお風呂の湯船に浸かったコンコは今まで生きてきて初めてである
大切なものを失
う
という感覚に襲われていることをまだ自覚してはいなかった。ただ自覚しているのは自分が泣いているということだけだった。
カシムはともかくリンカはどうして平気でいられるのか。彼を一番大切にしていたのは彼女なのに。一番手放したくなかったのは彼女ではなかったのか。彼も彼だ。コンタはどうしていってしまったのか。彼が一番ここから離れたくなかったのではなかったのか。もうひとつ、どうしてあの時、明るく振舞い彼を送迎している自分がいたのか。あそこでなんとしても彼を止めるはずではなかったのか。今日あの言葉をコンタが発するまで、てっきりそうだと確信していた。
答えなんかは出るはずも無く疑問だけが渦を巻き、彼女はそのままお風呂につかり続け、
「う、うう……ひっく…」
かみ殺したような嗚咽で、声を上げ泣き始めた。今日の湯船の水面に写るコンコの顔がゆがんでいるのは、水面だけの責任ではなかったし、彼女の耳がほんのりと赤いのも、別に湯の温度が高すぎたせいではなかった。
コンコが目を覚ましたとき彼女自身はどれくらい気を失っていたかはわからないものの、柱に架かっている時計に焦点を合わせると正確にあれから2時間は経っていたことをきっちりと示していた。彼女はそのあとに始めて自分がリンカの膝枕の上に頭を乗せていることに気づいた。
「あ……れ……?」
「気がついた?」
意識がまだ
朦朧としているせいか、リンカに対して先ほどの感情はなく、ただ自分の母親のように薄目開きになり、ただ素直に彼女と目を合わせていた。
「コンコにしてはずいぶん長く入っていたからおかしいと思って見に行ったら」少し彼女は苦笑いを見せ、「のぼせていたのよ?」と彼女の頭をなでながら、リンカの特徴ともいうべき薄目で答える。
「………」コンコはのぼせてしまったせいなのか、もう吹っ切れたのか
あること
以外はまったく頭の中にはなかった。
「……ママはおにいちゃんに行ってほしかったの? ほしくなかったの……?」
ただ素直に、本当に素直に口に出し、ただ素直に、本当に素直にその答えを彼女の口から聞きたかった。
「行ってほしくなかったわよ」
そして、彼女もその質問に一言素直に答えた。それはコンコの期待どおりの答えなのに、彼女は当然のごとく釈然としなかった。
「じゃあ、どうして…」
「じゃあ、どうして止めようとしなかったの? ということ?」
彼女は微笑みを変えることなく、コンコが言わんとしていたことを切り出した。
コクンとコンコはうなずきをみせ、耳の力を抜き、彼女の次の発言を待つことにした。
だが、リンカの口は動こうとはせず、ただずっとコンコをじっと見ているだけだ。彼女は娘の頭を耳の毛並みに沿ってなでたり、逆らってなでたりしている。コンコのほうが口を開こうとしたとき、
「お母さんはコンコを見るたびに私のお母さんを思い出させるの」
「おばあちゃんを?」
「そう、ここ4,5年前に会いに行ったきりで、あなたが小さいときだから覚えていないだろうけど…」懐かしむように彼女は顔を上げる。
「特にそう思わせるのは、コンコが私の家事の手伝いをしているとき……料理、食器洗い、洗濯、掃除、後、お買い物に連れて行って、品物を見ているあなたを見たとき……」また視線をコンコに戻し「コンコのそのしぐさがそうさせるのよ?」と彼女は話した。
コンコは率直に「どういうこと?」とリンカに聞くとゆっくりとまた話し始める。
「あなたの中には私のお母さんがいるの」
「え?」
「別に私のお母さんが亡くなってしまった。というわけじゃないのよ? 今だってお母さんは生きているんだから」
「うん」そして彼女は少し考えて、「……おばあちゃんの血がお母さんを通して私に受け継がれてるってこと?」と答える。
「そうね、少しかたい気がするけど、そんな感じね」と、リンカは微笑んだ。
「そして、多分私にはわからないけど、コンコの中には私もいて、どこかしら似ているところがあるのよ、きっと」
「……うん」彼女がそう答えると、彼女は自分で起き上がりリンカに勧められ、コップに注がれた水を口に含み、のどを潤した。
「コンコの母親であると同時に私はお母さんの娘で、コンコはおばあちゃんの孫であるのと同時に私の娘なのよ。そして、コンタは私の息子であると同時にお父さんの息子なのよ」
「え……あ……」
リンカは一言一言ゆっくりとコンコに話し、彼女に十分わかるように説明した。そして彼女はそれに気づいた。
「今日三人が帰ってきたときに、当たり前のことなんだけどもう一度再認識したの。ああ、この子は確かに私たちの子なんだって。そう気づいたとき、私にはどうすることもできないと分かったのよ」
コンコは自分でその気づきたことを言い聞かせるように言葉を出した。
「お父さんの……息子だから?」
リンカはコクリを一回うなずくだけですみ、言葉を出す必要はなかった。
「でも……」
コンコはカシムの性格を十分に理解していたが、自分とコンタとる態度はそれだとしても、彼女リンカにとる態度を思い出した。 「お父さん、お母さんの言ったことなら何でも聞くよ?だったらやっぱりお母さんが言えば……」
「そうね、私が言えばまず間違いなく……いいえ、あなたが言っても止められたでしょうね」
「え?」
「コンコはどうしてたとえ止められなかったとしても、コンタを止めなかったの?」
リンカに言われ風呂場で思ったことを思い出した。そうだ、どうして私はコンタを止めなかったのか。
「あの時……私は……なんかいやだった」
「ん?」リンカは彼女の答えをたとえ時間がかかっても、ずっと待つだろう微笑を向ける。
しかし、彼女はどういったらいいのか、どう表現したらいいのかわからず「やっぱりわかんない」としか言いようがなかった。
リンカのほうも少し黙って「そう……」と、別にわからなくてもよいというしぐさを見せ「あの時とめなかったんですから、それで十分よ」とだけ彼女は話した。
そしてリンカはまた一呼吸をいてもう飲み干したコップをテーブルに置いたコンコを見て、ゆっくりと口を開いた。
「私たちがお兄ちゃんを止めなかったのは……」
「私たちがお兄ちゃんを止めなかったのは……」リンカの発言をコンコが復唱し次の言葉を待つ。
リンカはパッとコンコから手を離し、
「それが一番いやだったからよ」
さらりと答える。
「え?」
先ほどまでと変わらず微笑んでいるのだがコンコにとっては少し
悪戯
っぽく見える。事実そうなのだが。
「お、お母さん?」
リンカの答えがあまりにも簡単だったからか、それとも彼女の言っていることがわかっていないのか、聞き返す。
彼女はコンコに向けていた顔を正面上空にある昨日より少しばかり欠けている月を見て「私たちが一番いやなこと」しばらく間をおいて、彼女のほうを向き、
「その人が私たちを好きでいることで、私たちの大好きな人がそのために何かをあきらめることじゃないかしら?」
「もう寝たのか?」カシムが庭から静かに縁側に歩いてきた。
「ええ、もう……散歩に行ってきたんですか?」リンカは先ほどいたその場所に座り夜風に当たっていた。
「ああ、ちょっと屋根の上まで」カシムは彼女の隣に座り、先ほどまでここに合ったコップの
址
を見た。
「あの子知らないうちにずいぶん重くなってたわ」リンカは少し疲れた顔をして「大きくなったのね。」
「……あれ……使ったのか?」自然と彼女の手に注意がいっていた。
「今日はコンコが一番疲れた一日だったでしょうから」それでもコンコの成長がうれしいのか彼女は微笑んでいた。
「まだ健在なのか? ここ十数年つかってなかったのに」
「かけられてみますか?」それは『まだ健在よ?』と言っているようなものだった。今度はカシムが少し疲れた顔をして「手に触れられただけで眠らされるのはちょっと……」素直に頭を下げ「遠慮します」
と、答える。
「いやぁ、十五歳か。ほんと、懐かしいなぁ」何とかその話題から逃れたいのか突然当時の自分を思い出した。
「いろいろ無茶してたな、あの時は」カシムは大きくもない庭を遠い視線で眺めていた。
彼女は微笑んでいる。
「さむいとこも行ったし、あついとこも行った」彼は当時自分の訪れた場所を回想して、懐かしんでいる。
彼女は微笑んでいる。
「少し息苦しいとこ、なんか変な感じのするとこ」
彼女は微笑んでいる。
「後、いろんな乗り物にも乗ったな」一つ一つ指を折り数えているようだ。
彼女は微笑んでいる。
カシムが彼女の異変に気づいたのは、自分の息子がこの小さな町のどの方角に行っても、船に乗らなければならないので、きっとヘラヌ漁港に行くはずだと庭をゆっくりと歩きながら話したときで、その後にまた回想にふけり、かつて彼の旅仲間であった親友の死を話したときに確信に変わった。彼女が死というものに同情することは当然で悲しむことを知っていたし、なおかつそれは立証済みだった。口にだしてからカシムは気づきあわてて話題を変えようと彼女のほうへ向かい表情を
窺
った。
彼女は微笑んでいた。
「……リン?」
ポタッ、ポタッ
彼女は涙を見せながらも微笑んでいた。
「……いてください」消え入りそうな声で彼女は顔を隠しながら言った。
「え?」
「抱いてください」
ゆっくり彼女はカシムの前に立ち上がり今度は彼にも聞き取れる声で
「私を抱いてください」と両腕を前に差し出しながら言った。
カシムは何もいわず一歩前に出てリンカの両腕の中に入り、左手を腰に、右手を彼女の左肩に置き、そしてゆっくりと引き寄せて半歩を彼女に歩ませ抱きしめた。するとこちらを向いているリンカの表情がさっきまで微笑んでいたのがうそのようにみるみる変わり、夜だということを構わず泣き出した。
「カシムぅ」
「何も言うな」
「わ、わた、ひっく、わたし、カ、カシムに……こうして……もらうまで、ひっく、じ、自分に、あ、暗示を……う、うわぁぁぁぁ」
「だからしゃべんなくていいから」
「ご、ごめ……」
カシムはむりやり右手を彼女の後頭部を持ってぐいっと自分の胸に押しやった。
「……」
「う、うわあぁぁぁぁ……」
リンカは彼の胸の中で子供のように泣いた。一方カシムはそんな彼女を見て「コンタ……二回も殴って悪かったな」にやりと牙を見せるだけだった。
「あ…あの……」
「ん?」
「どれくらい泣いていたかしら?」布団から半分顔を出しながら一緒にはいってはいないが隣に寄り添って寝ているカシムにリンカは話しかける。
「リンがああしてくれるならどんなに泣いていてもいいんだけどな」
「……バカ」
リンカは少し
頬
をあかく染め、カシムはそれを見てにやにやしながら「愛しているといったほうが良かったかな?」
「私に何を言わせたいの?」
「何も言わせたくないんだよ」
カシムはそれだけ言うとウインクとした。
「………」
リンカはそのまま――染めたまま――何も言わなくなり、ずっと彼を見ていた。そして布団からもう半分顔を出し、目を細めた。
「……もう、平気みたいだな。」少しの間の後「まさか、自分で自分にかけるとは思わなかったぞ? いったいいつから……」
「あなたが最後に抱きついたときからよ。泣かないという自身がなかったし、それに」
「それに?」
「自分の娘の前で泣けないでしょ?」
「……だからって……」
「でも事実、私はかけていなかったら確実にあの子の前で泣いていたわ」
「……」
あっという間に今度はカシムが口を出せなくなってしまった。
リンカはカシムが何もいえないことを確信すると決め手を出す。
「………私が自分で暗示を解けないとでも思っていたの?」
「……え?」
しばしカシムは考え込み、今度はカシムの顔がみるみるとあかく――暗くてわからないのが幸いだったと思ったが、リンカには多分お見通しであろう――なっていった。
「そういうことよ。あなたにああしてほしかったのよ」
彼女ははっきりと言った。
「……変わらないわね、そういうことには」不意に天井を見上げ「突然昔の話をするんですもの」
「ごめん」
「どうしてあやまるの?」
「いや、だっ……」リンカの顔を見ると、答えるのはひとつしかなかった。「負けたよ」
「降参?」
明かりを消している暗闇の中でもカシムは彼女がニコニコしてるのがわかった。
「ああ、降参だ。リンに弱みはすべて握られているからな」
ちょうど、昨日より少しかけた月の光が
障子
――最近はそろそろ夏が来るというのに、涼しく、湿気もないので障子はぴんと張っていた――を照らし、中の部屋を幾分か明るくさせた。
「じゃあ俺、そろそろ寝るよ」と、カシムはにっこりと笑顔を見せた。それは彼のどんな言葉よりも効果があり、有無を言わさず彼女の顔を紅潮――彼自身は起き上がろうとしたので彼女の顔を見れなかったが――させた。
ぐいっ
「……バカ」
「ん?」リンカに右腕をつかまれ「わわっ」彼女の布団の中に引きずり込まれた。
彼は突然の出来事だったので思いっきり動揺して、彼女の顔をうかがおうとしたが彼女は下を向いてしまって、見ることはできなかった。
「リン?」
「あなたって、どうしてそうなのかしら?」
「…?」
リンカはカシムを見て、彼に聞こえる一番小さな声で言った。
「……もうっ、私はまた泣かなきゃいけないの? それとも、愛していますと言わなければ一緒に寝てもくれないの、カシム?」
彼女コンコ・ロスノフスキは目を覚ました。起きて右側にある小窓をあけて「ん、ん〜〜〜」と背伸びをし、全身の力を抜き、ふ〜〜〜っと息をはく。そして昨日のリンカの最後のやり取りと言葉を思い出した。
『その人が私たちを好きでいることで、私たちの大好きな人がそのために何かをあきらめることじゃないかしら?』
リンカの表情も自然と浮かんできた。そして、その言葉をはっきりと理解したわけではないがただひとつだけわかったことがあった。
「確かに、お兄ちゃんの困った顔は――あのときに限っては――みたくないや」
チュンチュン
「ね?」
屋根にいる小鳥に微笑みながら、彼女は一人で納得したようだった。もう一度深呼吸をして。
「……さぁて、みんなを起こしに行きますか」と意気込み、階段を下りていった。
その日の朝は一人足りない日常だったが、大して静かな朝ではなく、どちらかというと普段ある普段より実は結構騒がしかったりする。
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